5.ウ メ     梅

 

   中国の華中から華南(長江の山岳地帯)が原産の、バラ科の落葉高木で、アンズとスモモは近い親戚関係にある。語源は、熟(う)む実(み),すなわちうめとする説、また烏梅(うめい)(梅の実のくん製)を薬用として中国から取り寄せたのを、うめと呼んだとする説などがある。中国で文献に記載があるのは約3000年前の「神農本草経」で、これには薬用が説かれている。わが国へは欽明天皇の時代(530年ころ)に、中国の呉(ご)の高僧が奈良の都へお土産として梅の木を持参した(このときに織物も持ち込まれ、これが呉服(ごふく)と呼ばれた)とか、奈良時代(710~784年)に遣唐使が持ち帰ったといわれるが、弥生時代の遺跡から核が出土している。万葉集には梅の歌が約120首と桜の約40首に比べて圧倒的に多く、奈良時代には宮中や公家社会でウメの花見が開かれて、人気の高かったことがうかがえる。その花見も平安時代にはサクラが中心となり、江戸時代には庶民にまで広まっていった。

 

   梅干しは平安朝ころからあるが薬として用いられ、庶民が日常に食べられるようになったのは江戸時代に入ってからである。明治時代に全国的に流行したコレラや赤痢の予防,治療に梅干が用いられ、日清,日露戦争(1894~1904年)を契機に軍需食品として脚光を浴びた。戦後、1962年に酒造法の改正で梅酒が家庭で作れるようになり、梅の需要が急速に伸びた。また1980年代に入って健康食品としての梅干しの需要が増加し、国内原料だけでは不足して中国,台湾などからの輸入も増えたが、供給過多のために1994年の19,400haをピークに減少している。特に青果市場向けの出荷が減少したのと、小ウメの減少も大きい。

  2023年の栽培面積は13,200ha,収穫量は95,500t、収穫量構成比は、①和歌山63.9%、そして群馬,福井,山梨,三重,青森,神奈川,宮城,長野,大分…と続く。2021年の品種別栽培面積構成比は、①南高57.8%,②白加賀13.5%,③小粒南高3.6%,④紅サシ3.3%,⑤豊後2.7%,⑥古城2.5%,⑦竜峡小梅2.2%,⑧鶯宿2.1%,⑨小梅2.0%,⑩甲州小梅1.5%、そして梅郷,NK14,大梅,織姫,高田梅,険先,みなべ21,露茜…と続く。5年前の2016年と比べたときに栽培面積は75.9%と減少、その中で栽培面積が増加しているのはNK14,みなべ21,露茜のみとなって、その他は全て減少している。

 

   食用として作られるものを実ウメといい、花は白色が多く開花も遅い。これに対して観賞を目的とするものを花ウメといって、1月から他にさきがけてきれいな花を咲かせるが、結実は良くなく果肉も薄く食用としての品質は劣る。うめは品種によっては花粉のないものや、あっても同一品種の花粉では結実が劣る(自家不結実性)品種が多く、開花期の同じ品種を2種以上混植(受粉樹)する必要がある。その上、開花期の2~3月はミツバチが受粉のために飛ぶ9℃以上の温度の日が少なく、生産の不安定要因となっている。

 

 

   梅にはクエン酸,リンゴ酸,コハク酸などの有機酸が含まれ殺菌力を有するとともに、血液の中に入ってはアルカリ性に変化して疲労のもととなる乳酸を体外へ排出する働きを持つので疲労回復を助ける。また保存食として梅干しにされ、この酸による殺菌力を利用した日の丸弁当はご飯の腐敗を防ぐ効果がある。同時に胃液の分泌を促して食欲不振を改善し、下痢や腹痛を直す整腸効果もある。梅干しのほかに梅酒,梅シロップ,梅肉エキスなどに加工される。

選び方と保存   果実酒には果皮の緑が鮮やかな青採りがクエン酸の含有量が多い、古くなると黄変して褐色の斑点がでてくる。梅干しには黄色に熟して傷のないものを使うと、酸が減って皮が柔らかく味もよい。保存は冷蔵庫へ。

旬   6月。

遣隋使と遣唐使

 

 遣隋使(けんずいし)というのは、倭国(わこく・日本)が隋に派遣した朝貢使(朝貢(ちょうこう)は中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物(みつぎもの)を捧(ささ)げ、これに対して皇帝側が恩賜を与える)で、大陸文化や仏教の受容と朝鮮半島での影響力維持を目的に、600~618年の18年間に5回以上派遣されている。背景としては飛鳥時代(592~710年)で、593年には、厩戸王(うまやとおう)(聖徳太子)が摂政になって、694年に藤原京への移転、701年の新国家体制を規定する大宝律令の成立、その前後の倭(わこく)から日本への改号などがある。その後、618年に随が滅んで唐に変わったのを受けて、引き継いだのが遣唐使で、630~894年(奈良・平安時代前期)の約200年間に20回程度が派遣されている。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ),吉備真備(きびのまきび),玄昉(げんぼう)、あるいは鑑(がんじん)と言った人々は、皆この時期に唐との間を行き来して唐の先進的な制度や文化を持ち込んだ。これらは、建国間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、わが国の政治や文化の発達に大きく貢献した。そして、ウメも彼ら遣唐使が持ち帰ったといわれる。

菅原道真(みちざね)公の「飛梅(とびうめ)」

 

 梅をこよなく愛した道真公が藤原時平のざん言によって、九州の太宰府(だざいふ)へ左遷されたときに(901年)、庭の梅になごりを惜しんで詠んだのが、「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花、主(あるじ)なしとて春な忘れそ」である。その梅の枝が道真公を慕って、空を飛んで太宰府に根をおろしたといい、これは今も太宰府天満宮の神木として、他の六千本の梅に先駆けて春一番に香り高い花をつけるという。道真は当代随一の漢学者で右大臣にまで上りつめた誠実温厚な人で、文章や和歌,書道にひいで、1100年の時を経てなお現代の人々に学問の神様として慕われている。

 

塩梅 あんばい

 

 梅を漬けるときの塩の量をほどよく加減する料理言葉として塩梅(あんばい)という言葉が生まれたのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。昔は料理では塩と梅酢で味を調(ととの)えていたことから味加減のことを指し、塩と梅酢の互いのバランスがよい状態だと、塩の辛さが丸くなり、酢の酸っぱさも柔らかくなる。この状態を「塩梅(えんばい)がよい」と言った。また、別の意味の言葉に物事の具合を表す「按排(あんばい)」があり、この二つが意味も音も似ていたために混同されたもの。そして、「塩梅(あんばい)」と読まれるようになった。

日の丸弁当

 

 昭和6(1931)年に理化学研究所がしゅう酸法による陽極酸化皮膜を「アルマイト」と命名し、登録商標とした。翌年以降、弁当箱,湯沸し,なべなどのアルマイト製品が一般に市販されるようになった。この頃の時代背景としては、昭和12年に日中戦争(支那事変)が始まり、昭和13年に国民,国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする国家総動員法が成立した。ヨーロッパでは昭和14年にナチス,ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始される。

 

 そうしたときに、広島県内の女子校が「月曜日の弁当のおかずは質素に、梅干しだけとしましょう」と決め、四角いアルマイトの弁当箱に白飯をぎっしり詰め込み、その真ん中に梅干しをのせただけの弁当を日の丸(日章旗)に見立てて日の丸弁当と呼んだ。それが、全国的に広まったと言われる。もともと、わが国で一般的なジャポニカ米は炊いた後冷めてもおいしいという特徴があり、古くから弁当に用いられてきた。

 

新元号「令和」れいわ

 

 「令和」の由来となったのは、「万葉集」の中から。奈良時代の初め、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で開かれた「梅花の宴うたげ」で梅の花を題材に歌ったものをまとめた序文で、本人が書いたもの。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(かぜやわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお) らす」(初春の素晴らしい月にして、風も春の陽気のように穏やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉(おしろい)のように咲き、蘭は身を飾った香のように薫っている)。この歌より二文字を取り「令和」が生まれました。2019.5.1

 

うめ酒の作り方

 

 青い梅(やや黄色なら香りがよく酸味がまろやか)1㎏を水洗いして、一粒ずつ水気をふき取り、広口びんに氷砂糖700g,35度焼酎1,8ℓと共に入れる。中の梅は3カ月から半年で取り出し、その後飲めるが3~4年は熟成させたい。梅酒は整腸作用と共に、血行をよくして疲れを除くのに効果がある。

 

うめ干しの作り方

 

 黄梅1㎏を一晩水につけてアク抜きをする。そして水気をきったあと、粗塩100g,焼酎100ccを加えて漬け込む。約2倍、2kgの重しをのせて数日、水があがったら重しを半分にする。赤じそが出回るようになったら塩でよくもんで梅の上に広げる。最後は土用干し、7月20日頃の晴天が続くころに3~4日天日に干して出来上がり。

 

(1) 古城(ごじろ)

 

 和歌山県田辺市長野の那須政右エ門氏が大正時代後期、他所より譲り受けた穂木を接ぎ木した中から生まれた。那須氏の屋号をとって古城梅と名付けられた。果実は緑色で光沢があり硬いことから、梅酒,梅ジュースに用いられる。産地は和歌山、熟期は5月中旬と早い。

 

(2) 甲州小梅

 

 果実は4~6gの宝珠形で玉揃いがよく小梅の代表的品種で、果皮は濃緑色で陽光面に美しい鮮紅色の着色がある。花粉が多いことから梅の受粉樹としても栽培される。カリカリ梅には若もぎがよく、熟度が増したものは梅漬け用に重宝される。産地は山梨、熟期は5月中~6月上旬。  

 

(3) 竜峡小梅(りゅうきょうこうめ)

 

 長野県農業試験場下伊那分場が、昭和34~36年にかけて優秀系統の選抜を行なったときに、下伊那郡松川町の大栗重寿氏の園で発見され昭和37年に登録された。果実は2g前後,肉質は緻密で品質は優れている。産地は長野、開花は関東地方で2月中~3月上旬,熟期は5月下旬。

 

(4) NK14

 

 和歌山県果樹試験場で1999年に種子親の南高に花粉親の剣先を交配して育成、2009年にN=NANKOU,K=KENSAKIの頭文字をとって品種登録された。果実は25~30gと南高梅よりやや小粒だが、果皮は緑色で陽光面が鮮紅色に着色する。主力品種の南高が自家受粉出来ずにミツバチによる受粉が不可欠だが、春先が寒かったり雨が多かったりするとミツバチの活動が鈍り着花率が悪くなる。NK14は自家受粉し豊産性であることからこうした不安がない。梅酒および梅干しに適し、産地は和歌山,熟期は5月下~6月上旬と南高よりやや早熟なことから収穫のピークを分散できる。

(5) 小粒南高

 

 南高梅の小粒品種で果実は25~30g、よく日に当てると実がほんのり紅をさす。南高梅の場合、南高梅同士の花粉では受粉しないので栽培園地に小粒南高の品種を混植することによりミツバチでの受粉に効率がよい。このような受粉に使われる梅を一般に「受粉樹」と呼ぶ。この花の数が多いという「受粉樹」の特徴は、実がたくさんなるので、その分、実の大きさが小さくなり、小粒になる。品質は南高梅と同等で同時収穫・出荷が可能であり使い勝手がよい。産地は和歌山、熟期は6月中旬。

 

(6) 南高  (なんこう)

 

 和歌山県日高郡南部川村の高田貞楠氏が、明治35年に自園に内田梅の実生(みしょう・種子をまいて育てる方法で、突然変異が生じやすい)を植えた。この中から優良種が高田梅と呼ばれて大切に育てられ、その後この高田梅を小山貞一氏が譲り受けて増殖を行った。昭和26~31年にかけて県立南部(みなべ)高校の竹中勝太郎氏が、この中から優良系統の選抜を進め、地元の南部高校の略称をとって南高と名付け、昭和40年に登録された。果実は20~25g,青い未熟なものは梅酒,梅ジュース、ジャムなどにすると香り高くコクがあるし、梅酒としては最高の品種でもある。豊産性で比較的土地を選ばないことから増殖され、2020年の栽培面積は5,056haとうめ全体の54.7%を占めてトップとなっている。開花は和歌山で2月中~下旬,熟期は6月中旬、産地別では和歌山が84.7%,その他各地で栽培されている。

 

 

(7) 紅サシ

 

 福井県若狭町伊良積で、江戸時代の天保年間(1830~1844)に発見された。本格的に定着したのは明治15年以降で、低温に強いことから福井県での栽培が続いてきた。ただ、生産性は南高が10a当たり1,300kgに対して、500kg程度しかない。果実は20~25g、果皮は淡緑色で光沢があり陽光面がほんのりと赤く着色し外観がきれいで、果肉が厚くて種が小さい特長がある。梅干しに加工したときの仕上がりは果肉,果皮ともに柔らかく、繊維が少なくてペクチンが多いために品質はきわめてよい。産地は福井、熟期は6月中~7月上旬。

 

(8) 白加賀(しろかが)

 

 江戸時代から関東地方を中心に大量栽培されているが、来歴については不明な部分が多い。果実は25g前後,果肉は厚く肉質が緻密で、繊維が少なく品質は優秀,青梅と梅干しの兼用品種だが青梅での収穫が多い、2020年の栽培面積は1,312haとうめ全体の14.2%を占めて南高に次いでいる。開花は2月中~3月中旬,熟期は関東で6月中~下旬。産地別では、群馬24.9%,②埼玉19.3%,③宮城11.9%で、北海道を除く各地で栽培されている。

 

 

 

(9) 玉英(ぎょくえい)

 

 東京都青梅市二俣尾の野本英一氏の父,元次郎氏が、明治末期に植えた実生から育成、昭和30年頃から注目され35年に登録された品種で、早くから結実を始め、豊産である。果実は30g前後,果肉が厚く緻密で品質はよい。開花は2月下~3月下旬,熟期は6月中~下旬、産地は愛知,福岡,広島,神奈川。

 

(10) 豊後(ぶんご)

 

 ウメとアンズの交雑によって生まれた品種で、果実は平均30~40gだが大きいものは70gにも達する。果肉は厚いが肉質は粗く品質はあまりよくないが、耐寒性があることから普通ウメの栽培が難しい東北地方での栽培が主力。産地は青森,長野,鹿児島,山形、開花は関東地方で3月上~中旬,熟期は6月下旬。

 

(11) 鶯宿(おうしゅく)

 

 徳島県名西郡神山町の農家が、和歌山県から入手した苗木を育成したもの。果実は30~35g,豊産性で果肉が厚く繊維が少なくて光沢があり外観が美しい、ただヤニ果の発生が多いことから青梅での収穫が多い。花粉が多く白加賀の受粉樹としてよく用いられる。開花は関東地方で3月中旬,熟期は6月下旬、産地は徳島,奈良,大分,宮城,群馬。

 

(12) 梅郷(ばいごう)

 

 東京都青梅市梅郷の吉野農業協同組合のウメ試験地で、青木就一郎氏が昭和36年に発見,白加賀か小向の実生とおもわれ昭和44年に登録された。果実は25~30g,果肉が厚く緻密で品質がよい。また、豊産で花粉が多く白加賀や玉英の受粉樹としてすぐれている。産地は群馬。

 

(13) その他

 

甲州最小…園芸試験場長の恩田鉄弥氏が大正8~9年ごろ、奈良市の旅館で集めたもののひとつで大正14年に発表されたが、来歴については不明な部分が多い。名前は古くからの小ウメの産地の山梨県(甲州)と果実が小さいことから付けられたもので、ふつうに小ウメと言えばこれを指すほどの代表的品種で,梅干しとして品質はよい。果実は4~5g,玉揃いがよく陽光面にやや濃い着色がみられる。開花は関東地方で2月下~3月上旬,熟期は5月下~6月上旬、産地は熊本,島根,群馬。

 

パープルクイーン…和歌山県田辺市中三栖の廣畑治氏の梅園で小梅「白王」の枝変わりとして発見され、1996年に品種登録された。果実は1個が6g前後,果皮の地色は緑だが、全体に色周りがよく、紅紫色となる。その為、梅シロップや梅酒にすると美しい赤色が滲み出てくる。また、香りが強い。産地は和歌山、熟期は5月下~6月上旬。

 

織姫…群馬県では大正中期に高崎市に導入され、果実は5g程度と小梅の中では大きく収量も多い。果形は円形で果頂部は丸く、淡黄緑色で外観が美しい。花粉が多いことから受粉樹としても使われ、早もぎをしてカリカリ漬けに、遅もぎをして梅干に加工する。産地は群馬、開花は群馬で2月下~3月中旬,熟期は5月下~6月上・中旬。

 

玉梅…中国から導入されたというが、来歴は不明。一般的には青軸と呼ばれている。果実は30g前後,果肉が厚く緻密で、陽光面でも赤く着色することがなく、梅干し用として優れている。産地は熊本,広島,岐阜、熟期は6月上~中旬。

 

藤五郎…江戸時代後期に宇野藤五郎が栽培し、新潟市場に出荷したのが始まり。果実が大きく、梅干や梅酒に適する。産地は新潟,秋田、熟期は6月上~下旬。

 

越の梅…藤五郎梅の枝変わり(突然変異)で種が小さく果肉が厚い、また、皮がやわらかくてしその着色がよいことから梅干などの加工品に向く。反面ではやわらかく薄い皮は病気になりやすく、実が大きくなってくると雨などの影響で

実割れとなりやすい。産地は新潟、熟期は6月下旬。

 

露茜(つゆあかね)…1993年,ニホンスモモ・笠原巴旦杏(はたんきょう)にウメ・養青(ようせい)を交配して育成し、2009年に品種登録したもので、スモモとウメの種間雑種となる。果実は60~70gと大きく、果皮や果肉が鮮紅色に着色し、梅酒や梅ジュースにしたときにきれいな紅色になる。名前の由来もここにある。産地は和歌山、熟期は7月中旬。