3. アイスプラント

 

   南アフリカのナミブ砂漠が原産のハマミズナ科の植物。名前の由来は葉や茎の表面に塩を隔離するための液胞が2ミリ前後に発達して、透明でキラキラと輝くため葉の表面が凍ったように見えることからついた。近年、全国各地で栽培され、佐賀はバラフとクリスタルリーフ,静岡はソルティーナ,アグリ社はプッチーナ,国立(くにたち)ファームはソルトリーフと様々な名前で販売されている。

 

   土耕栽培の場合、土に重金属が含まれると吸収,蓄積する可能性があるので注意が必要だが、海水に準じた塩水を潅水すると自然な塩味に育てることができる変わった野菜でもある。葉は肉厚で水分が多く,パリッとした歯ごたえの中にみずみずしさがあり、独特の歯ざわりがある。生でサラダ,お浸しやソテー、天ぷらなどに利用する。脂肪の代謝をよくし脂肪肝を防ぐイノシトールや血糖を低くする効果があるピニトールという成分が含まれ、注目されている。

 

選び方と保存   葉の色が濃く、しおれがないもの。保存はポリ袋に入れて冷蔵庫へ。

旬    一年中。

 

やおやと八百屋お七伝聞

  

 野菜は青いので青物(あおもの)と呼ばれ、野菜を売る店は「青物屋」であったが、転じて青屋(あおや)、そして江戸時代の初めには「やおや」になった。「八百屋」という漢字については、数が多いことを示す「八百」を当てたもの。ちなみに、昔は、乾物屋や魚屋なども八百屋と呼ばれ、八百屋お七の実家は乾物屋でした。

 

 八百屋(やおや)お七(しち)伝聞…江戸の本郷森川町の商人・八百屋市兵衛は、八百屋を生業(なりわい)として裕福に暮らしていた。天和二年十二月二十八日、駒込大円寺より出火した大火で、一家は檀那寺の正仙院に避難した。この寺には寺小姓の生田庄之助なる十七になる美少年が居た。庄之助はひと目で八百屋市兵衛の娘、お七に恋慕し、人目を避けながらも正月の松の内が明ける間もなく、深い契りを結ぶ仲になった。その後、家に戻ったお七だが、親の目もあり二人が思うようには会うことも出来ずにいた、そんな折、また火事があれば庄之助の居る寺に泊まる事が出来ると、はかない女心で考えたお七は三月二日の夜、自宅に放火したが、たちまち見つかり未遂に終わった。お七は捕らえられ奉行所に引き立てられた。三月十八日から十日の間、江戸市中を引き回され、二十八日に鈴ケ森にて火刑に処せられた。

 

八百長

 

   明治時代の相撲界から使われだしたもので、「八百屋の長兵衛」・根本長造さんは通称「八百長(やおちょう)」と呼ばれ、相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫さんと碁(ご)仲間であった。碁の実力は長兵衛が勝(まさ)っていたが、八百屋の商品を買ってもらう打算から、わざと負けて伊勢海親方のご機嫌をとっていた。のちにこの事実がばれて、以来わざと負けることを相撲界では「八百長」と言うようになり、やがて、事前に示し合わせて勝負することも含まれるようになり、相撲以外でも使われるようになった。

 

蔬菜(そさい)とは

 

   古代には山野に野生している草本植物のうち食べられるものを野菜、栽培しているものを蔬菜(そさい)と称していたが、今では同じ意味です。明治6年に「西洋蔬菜(そさい)栽培法」という本が刊行されたが、以来、農業や一般で蔬菜の使用が増えた。中国では野菜のことを蔬菜(スゥサイ)と書くので、ここら当たりが出所かも知れない。戦後、昭和21年11月に内閣から当用漢字表が制定されたが、その中に「蔬」の文字がなかったことから、農業の分野では「蔬菜(そさい)」が使われていたが、一般には「そ菜」と「野菜」が混在して使われていた。その後、農林省と文部省は蔬菜を野菜に改めて現在は野菜の字が主流となったが、まだ一部では蔬菜の字も使われている。下記の資料で見ると、昭和53年から蔬菜→野菜へ変わっている。*2023年の農水省HPには、世界蔬菜センターの表記がありました。


             蔬菜部辞令・昭和47年   蔬菜統計・昭和52年発行  青果物流通資料・昭和53年発行