112. ナ ス   茄子 Egg plant

 

 インド原産のナス科の野菜で、熱帯では多年草だが、ふつうは一年草として栽培される。わが国ヘは中国を経て渡来したとされ、東大寺正倉院の文書(750年)に記録があり、奈良時代にはすでに重要野菜のひとつとなっていた。なすは、実(み)が生果では少し酸味があるので中酸実(なすび)と呼ばれ、なすは女房詞(ことば)(室町時代初期に宮中に仕える女官たちの間で上品な言葉遣いとして用いられていた)である。また、為(な)す,成すに通じ、大願成就(じょうじゅ)の意味としてめでたいもののひとつに数えられる。

 

 高温性作物で生育適温は昼間22~30℃,夜間16~20℃で、低温には弱く15℃以下では生育不良が起こる。そして、土壌の乾燥,酸性,連作,日照不足,風を嫌う。収穫後の適温は7~10℃で、低温障害として果皮の表面にピッティング(褐色の斑点)がでやすく果肉も褐変するので、とくに冬期の流通,貯蔵には注意したい。品種が多く、一口なすともいわれる小なすはからしみそ漬けに、東日本を中心にもっとも多く出回っているのが卵形,中長なす(千両2号)で、西日本に多いのが長なす(筑陽)である。ほかにも丸なす,米なすなどがある。

 

 味が淡泊で栄養価は低いが、美しいなす紺色は食欲増進にひと役買う貴重な野菜である。油とよく会い、しかも油を吸収するが油っぽくなく濃い味付けでもしつこくならない。そのうえ、油を使うと色が溶け出さず美しい色に仕上がる。なすは包丁を入れてそのままおくと、ポリフェノールオキシダーゼ(酸化酵素)によって褐変が起こるので、切ったらすぐ水に入れるとよい。なすを漬ける時に古釘やみょうばんを入れるのは、含まれているアントシアン系色素が鉄やアルミニウムと結合して金属塩を生じ美しい青色を保つことによる。煮物,焼き物,揚げ物,油炒め,汁の実,和え物,漬物など全ての料理に用いられる。

2022年の収穫量は294,600t、構成比は、①高知13.8%,②熊本11.3%,③群馬9.7%,④茨城6.1%,⑤福岡5.9%、そして愛知,栃木,埼玉,京都,千葉,徳島…と続く。 

選び方と保存 色が濃くつやがあり、ヘタの切り口が新しくとげが痛いくらいなもの。保存はしなびやすいのでポリ袋に入れて涼しい所へ、冷蔵庫へ入れると皮が固くなり風味が落ちる。

旬 5~9月。

 

なすとアントシアン

 

 なすの美しい黒紫色は、アントシアン系色素のナスニン(紫色)とヒアシン(青褐色)で、この色素は水溶性で酸で赤に,アルカリで青になる性質を持っている。なすの漬物が褐変を帯びるのは、漬物中に乳酸菌が繁殖して酸性になるためである。さらにアントシアンは、鉄やアルミニウムと結合して金属塩を生じ美しい青色を保つので、なすを漬ける時には古釘やみょうばんを入れるとよい。しょうがを酢に漬けたり、しその葉を梅漬けに入れると赤くなるのも、このアントシアンの色素によるものである。

 

なすとことわざ

 

 「親の意見とナスビの花は、千にひとつの無駄もない」といわれるように、なすは完全花で無駄花(雄花)がなく咲けば結実する。しかし、実際に収穫できるのは3分の1くらいである。秋なすは温度不足で種子が少なく味がよいとされ、「秋なすび嫁に食わすな」といった姑(しゅうとめ)気質をあらわしたことわざがあるが、これは一説には「秋なすは種が少なく新嫁これを食えば子種絶ゆ、故に姑の親切心をもってこれを与えず」ともいわれる。ほかにも「一富士,二鷹,三なすび」は徳川家康のころ、高いものの順序として富士は日本一高い山,鷹は獲物を追って高く飛ぶ,そして初物のなすの値の高さを表わしたといわれる。江戸に幕府を開いた家康は駿河(静岡)からわざわざ百姓を呼び寄せて、冬でもなすを作らせ諸大名に振る舞った。そのころ米一石(150kg)が一両といわれ、なす1個と同じ値段で、徳川家のご威光を示すものでもあった。江戸っ子は初物食いに見栄を張るならわしがあり、誰よりも先にナスを食べることが自慢の種で周辺になすの産地が生まれた。

 

なすび記念日

 

 冬春なすの最盛期は4月で、4月17日は「ヨイナス」と語呂(ごろ)もよいことから冬春なす協議会では4月17日を「なすび記念日」、「毎月17日は国産なす消費拡大の日」として制定し、2004年2月9日に日本記念日協会より認定を受けた。ちなみに徳川家康が駿府城で亡くなったのが1616年4月17日でした。

 

那須与一 なすのよいち

 

 平安時代末期、都を追われた平家は放浪の末に屋島に拠点を置き、ここに源義経(みなもとのよしつね)が平家追討のため屋島を目指します。元暦2年(1185年)「屋島の戦い」・70メートル先の敵の小舟に掲げられた扇の的を見事一矢で射貫いてみせた活躍から一躍その名を確立した武将・那須与一(なすのよいち)。逸話はあまりにも有名で、史上まれに見る弓の名手として語り継がれている。八百屋の符丁では、この故事からなすを「ヨイチ」と呼んだ。(昭和47年に東京・荏原青果にて)