付、季節を彩る歳時記 生活にうるおいを求めて!

                     心豊かな毎日を送ろう

 

《 おせち 》/1月

 

 お節料理とは、宮中の宴会(節会(せちえ))の料理のことで、本来は朝廷の節供(せっく)の宴会に用いられたものであるが、のちに正月の料理だけをお節と呼ぶようになった。江戸時代になって、幕府が決めた「五節供」は次の通り。一月七日=七草の節供,三月三日=桃の節供,五月五日 端午(たんご)=菖蒲(しょうぶ)の節供,七月七日 七夕=星の節供,九月九日 重陽(ちょうよう)=菊の節供。

 

 昔からお節料理には縁起物が顔を揃え、鯛はおめでたい,かずの子は子孫繁栄,エビは腰の曲がるまでの長生きをまた、脱皮を繰り返して成長していくことから、発展、成長の意味もある。黒という色は邪除けといわれており、これにちなんで、黒豆には1年の邪気を払って健康でマメに働けるように,タコの足は八本で末広がり,田作り(ごまめ)は片□いわしの干物で、昔、田の肥料として使い豊作をもたらしたことから五穀豊穣を、そして小さくても尾頭付き,きんとんは栗を黄金色の丸い塊・すなわち黄金色の丸い小判に見立てて、金運祈願の意味,錦卵や伊達巻きの山吹色も黄金,やつがしらは人の頭に立つように,れんこんは穴がたくさんあいていることから見通しがよい,ブリやハマチの照り焼きも出世魚から,コンブは喜ぶ・長々と続く,クワイは芽でたい…といった具合。まさに、新しい年にかける豊作や幸運を祈る心のあらわれといえる。

 

《 お屠蘇(とそ)

 

 中国から伝わり、平安時代の初期に一年の邪気を払い長寿がかなうとして宮中の正月行事とされた。しかし、庶民まで広まったのは江戸時代に入ってからである。肉桂(にっけい),山椒(さんしょう),防風(ぼうふう),白じゅつ,桔梗(ききょう),陳皮(ちんぴ),丁字(ていじ)などを調合(ちょうごう)した漢方薬(かんぽうやく)(屠蘇散(とそさん)・生薬が原料なので独特の香りと味がする、今は薬局でティーバッグタイプが売っている)を紅絹の小袋に入れ、酒またはみりんに浸して作る正月の薬用酒で、いただくときは「若い人の精気を年長者にわける」という意味から、年の若い人から順に年長者に杯を回すのが習慣。この屠蘇散(とそさん)を用いるのは関西以西で、普通は正月に飲む祝い酒(日本酒)のことを「御屠蘇」と称することの方が多い。

 

《 雑煮(ぞうに)

 

 年の瀬に神に供えた餅や海山の幸を、正月に分ち食べた直会(なおらい)に起源があり、いろいろなものを入れて煮た料理=雑煮という。歴史は古く、室町時代頃にはすでに食されていた、ただ、庶民に餅・米餅が手に入るようになるのは江戸時代である。入れるもちは、関東では手っ取り早く数多く作れる角餅を、入れる前に焼いて香ばしさを出したものが多く使われ、一方関西では昔から「円満」の意味を持つ縁起ものの丸餅(餡(あん)餅(もち)を入れる地域もある)を湯通しして使われた。汁の味付けには、関西では白みそ汁仕立てであり、武家が中心の関東では「ミソをつける」のは縁起でもないとすまし汁仕立てとする。お雑煮を食べる際には旧年の収穫や無事に感謝し、新年の豊作や家内安全を祈ります。

 

《 お年玉 》

 

 昔から日本ではすべてのものには神が宿るといわれて、お正月は様々な飾り付けをして、年の初めに家を訪れて家族に幸福を与えてくれる「年(とし)神(がみ)様」を迎える。そこでお供えものをして、新しい一年の無病息災を祈りました。このときお供物として供えられた鏡餅に年神様が宿られることから、御歳神様の賜(たま)わりものとして鏡開きをして参拝しに来て下さった人たちに分け与えた。鏡餅は元々鏡の形を模したもので魂を映し出すものと言われて、年神様の『玉』ということから『年の玉(魂)』、それに「御」がついて『お年玉』と言われるようになったそうです。これを受け取った参拝者でもある家主が、家族たちに砕いて半紙に包み分け与えたのが『お年玉』の由来と言われています。

 

《 初詣 》

 

 元旦から松の内(1/7)までに、初めて神社やお寺,寺院に参詣(さんけい)してその一年の幸せを祈願することで、その土地の氏神様をまつった神社にこもり大晦日から元旦にかけて豊作や家内安全を祈願する年籠(としごも)りが大晦日から元旦にかけてお参りする習慣へと変化して初詣(はつもう)でになったという説と、歳神様のいる方角にある神社,寺院にお参りするという恵方参りが初詣でになったという説があります。もともとお正月は神道の儀式なので、参拝する寺社についても、江戸時代までは基本的に氏神や恵方神社へ詣でるものとされたが、明治時代以降は恵方などに関係なく有名な寺社、①明治神宮,②成田山・新勝寺,③川崎大師・平間寺,④浅草寺…へ参拝するものへと変わっていった。同様に、神道や仏教など信仰の対象も基本的に区別されない。

 

《 七草 》

 

 起源は中国で晋の時代、民間の風俗を書いた「荊楚(けいそ)歳時記」に「正月七日を人日とする。七草であつものを作る」とある。わが国ヘは平安時代の初期に伝わり宮中での行事となり、江戸時代になって一般に広まったが、本家の中国ではずっと以前にすたれてしまった。「せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな(かぶ),すずしろ(大根)」で、正月七日に七草(ななくさ)粥(がゆ)にして食べると、万病を治し悪魔を除くといわれている。これは野菜が少なかった古代において、貴重な青物であり、祖先が経験から必要としたものであろう。近年、七草粥は健康志向の料理として見直されており、年々人気が高まっている。七草セットにしてパック詰めになったもの、刻んでフリーズドライ化をしたものや、レトルトパックのお粥タイプも出回り簡便さが受けている。

 

《 成人式 》

 

 昭和21年11月22日,埼玉県蕨町(現蕨市)で敗戦による虚脱感の中で,次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ますという趣旨で、「成年式」が開催される。これに影響されて,昭和23年に施行された祝日法の中で,1月15日が成人の日として定められた。これは「元服が正月に行われた古来の例、1月15日は松の内」との考えによる。そして、1998年の祝日法改正に伴って2000年に1月第2月曜日と定められた。成人になったことを祝福し、大人としての自覚を持ってこれからを生きてもらおう、特に夢と勇気を持ちなさいということです。

 

《 松の内とどんど焼き 》

 

 松の内とは、元旦から松飾りをはずすまでの間をいい、この間は正月気分でのんびりとすごし、人と会えば「おめでとうございます」と挨拶をする。地方によって期間が異なるが、7日までが多い。松の内がすむと1月15日の「どんど焼き」とか,「左義長(さぎちょう)」と云われる行事・田んぼや空き地に長い竹を組んで立て、そこに正月の松飾り,注連縄(しめなわ) ,書き初め,お守り,お札などを家々から持ち寄って焼く。火にあたったり、焼いた餅や団子を食べて、無病息災・五穀(ごこく)豊穣(ほうじょう)・家内安全を祈る民間伝承行事です。門松や注連飾りによってお迎えした歳神(としがみ)様を、それらを焼くことによって炎と共にお送りする意味がある。

 

《 鏡開き 》

 

 11日は鏡開き、年末から飾られていた正月飾りの鏡餅(歳神様が宿っている)を下げて、家族円満と無病息災を願ってたべるもの。武家社会の風習・鎧(よろい)や兜(かぶと)などの具足に供えた具足(ぐそく)餅を下げて雑煮にして食べたのが始まりで、刃物で切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割る。おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼び、割ったお餅はお汁粉や揚げ餅にして食べる。

*最もシンプルな鏡餅の原型は、橙と干し柿(串柿)と鏡餅の3つで、それぞれ玉と剣と鏡を表しており三種の神器である。

 

《 鏡開き 》/2月

 

 11日は鏡開き、年末から飾られていた正月飾りの鏡餅(歳神様が宿っている)を下げて、家族円満と無病息災を願ってたべるもの。武家社会の風習・鎧(よろい)や兜(かぶと)などの具足に供えた具足(ぐそく)餅を下げて雑煮にして食べたのが始まりで、刃物で切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割る。おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼び、割ったお餅はお汁粉や揚げ餅にして食べる。

*最もシンプルな鏡餅の原型は、橙と干し柿(串柿)と鏡餅の3つで、それぞれ玉と剣と鏡を表しており三種の神器である。

 

《 恵方巻き 》

 

 「太い巻き寿司を恵方(えほう)に向かって、黙って願い事をしながら切らないように食べると、一年間よい事がある」。由来は不明ながら、江戸末期に大阪で始まったが、戦後は途切れた。それを海苔の販売促進行事として1973年から復活、1977年の道頓堀でのイベントがマスコミに取り上げられ、お寿司屋さんや食品メーカーが便乗して全国に広まった。今ではスーパーや百貨店ではこの恵方巻きが大量に売れ、すっかり節分の行事として定着した。巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、「縁を切らないために包丁を入れない」ということで、まるごと食べることになった。

*恵方は、その年の福徳をつかさどる神さまが居る方角をいう。

 

《 立春 》

 

 二十四節気の第1節目、4日または5日で旧暦の元旦、旧暦では一年のはじまりは立春からと考えられていたため、この日がすべての始まりとなった。暦のうえではこの日から春となり、この日から88日目がお茶摘みに最適な八十八夜、210日目,220日目が台風が襲来することが多く厄日(やくび)とされる。立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。この文字は、縦書きすると左右対称になり一年間災難にあわないというおまじないです。また、立春以降に初めて吹く南よりの強い風を春一番(はるいちばん)と呼ぶ。

 

《 建国記念日

 

 明治5年、神武天皇即位の日・紀元前660年1月1日(日本書紀の記述による)を、新暦に換算した2月11日を日本の建国された日として祝ったのが、紀元節・祝日であった。これが戦後占領軍の「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」ということで廃止された。しかしその後、紀元節、復活の動きが高まり、1966年に「建国記念の日」として国民の祝日に認められ、翌年から適用された。

この明治5年は旧暦から新暦・西洋のグレゴリウス暦への改訂があり、12月2日の翌日を明治6年1月1日にした。

 

《 バレンタイン・デー St.Valentines day

 

 14日は3世紀始め、ローマの聖人バレンチヌス(ラテン語)が殉教(じゅんきょう)した日というのでこの名がついた。14世紀には、この日を「愛の日」と呼ぶようになったが、これはこの季節になると小鳥がつがいになることから恋人たちを祝福するという話と、女性が男性に恋文を渡したといわれる古代ローマのルペルカーリア祭の名残とも言われ、キューピッドやハートの絵を描いたカードを送る風習が生まれた。わが国では、昭和11年にチョコレート会社のモロゾフが英字新聞の広告でバレンタインデーの習慣を書くとともに贈り物にはチョコレートとの宣伝が行われた。その後昭和33年、メリーチョコレートが新宿・伊勢丹デパートでバレンタインセールを始めた。翌年にはハート型のチョコレートを作り、女性から男性に贈りましょうという宣伝を始めた。これが今ではすっかり定着してしまった。また、このバレンタインの1カ月後の3月14日をホワイトデー,クッキーデーと呼び、お返しをする日とされる。

 

《 雛(ひな)祭り 》/3月

 

 3日は桃の節供(せっく)、三月三日と三が重なることから「重三(ちょうさん)の節供」とも呼ばれる。草や布きれで作った人形(ひとがた)(比々(ひひ)奈(な)といいこれからひなとなった)で身体をなでて我が身のけがれを移し、水に流して厄除けをした「流しびな」からきている。この風習に3月初めの巳(み)の日に禊(みそぎ)をする中国の風習が混ざりあって定着したもの。川に流すには惜しいほどの、装飾的な人形を飾るようになったのは江戸時代の初期あたりからで、中期には宮廷の優雅な宴(うたげ)を表したひな壇となって、さらに後期には、良縁を願って嫁入り道具なども飾られるようになった。いつまでも飾っておくとお嫁にいき遅れるといわれ、祭りの翌日にはすぐ片付けるのが習わしである。ひな祭りのごちそうは新鮮な魚介類や春の野菜が出回ることからお寿司とはまぐりのお吸い物となる。はまぐりの貝殻は貝合わせという遊びにも使われるように、元々の組合せ以外の貝殻とはぴったりかみ合わないという性質を持っている。これが貞節のシンボルとなり、結婚式やひな祭りには欠かせない。

 

《 啓蟄(けいちつ)

 

 啓は開く、蟄は土中の意味で、冬の間土中の中で眠っていた虫やカエルが春のぬくもりに目を覚まし、ぞろぞろとはい出してくる時期という意味。日増しに気温があがり日ざしも明るくなって、住まいの外回りの汚れも気になってくる頃となる。

 

《 三寒四温 》

 

 本来は冬期に中国北部や朝鮮半島で、シベリア高気圧から吹き出す風の強弱によって寒い日が3日ぐらい続き、そのあと比較的温暖な日が4日ぐらい続く現象。日本の天候はシベリア高気圧だけでなく、太平洋の高気圧の影響を受け、天候は複雑で、あまりはっきりとは現れない。そんなことから、寒暖の変化がはっきりと現れる春先に使われることが多くなった。

 

《 お彼岸と春分の日

 

 20日前後は彼岸の中日で春分の日、その3日前が彼岸の入り、3日後が彼岸の明けという。「暑さ,寒さも彼岸まで」といわれるように、風の冷たさも和(なご)んでめっきり春めいてくる。彼岸とは梵語(ぼんご)の「波羅密(パーラミー)多(タ)」から出た言葉で、われわれのすむ煩悩,執着の世界である此岸(しがん)から悟りの境地、仏の世界である彼岸に到達することを指す。彼岸は仏教思想(浄土教)に由来し、春分と秋分はともに昼夜の時間が同じで、太陽が真東から出て真西に沈むことから西方極楽浄土を願い求めて、わが国でも始まったとされる。祖先を祭る風習として墓参りをし、供物(くもつ)の彼岸団子,牡丹餅(ぼたもち)(小豆の粒をまぶした様子が牡丹の花と似ていることから呼ばれ、秋はお萩という)を供える。平安時代初期から宮中で行なわれ、庶民まで広まったのは江戸時代に入ってからである。

 

《 花見とソメイヨシノ 》

 

 江戸・染井村の三代目伊藤伊兵衛(いへい)は大名屋敷(三重県津藩の藤堂家・32万3900石の外様大名で八万坪の下屋敷を擁していた)の庭掃除人であった。寛文年間(1661~73年)、広大な屋敷は薩摩の霧島山から取り寄せたツツジで埋め尽くされていた。この刈り払われたツツジを苗にして販売、江戸中に広まっていった。ソメイヨシノも江戸末期に染井村の植木屋が売り出した、伊兵衛が各地からサクラを取り寄せて植えた中からソメイヨシノが生まれたともいわれるが定かではない。オオシマザクラとエドヒガンとの交配種といわれ、生育が早く枝いっぱいに花を咲かせる姿は他のサクラを抜きん出るもので、明治になって全国的に広まった。ただし、北海道では耐寒性が強いエゾヤマザクラ(オオヤマザクラ)が主流で、花色の赤みが濃く美しい。 写真はエゾヤマザクラ 


 

《 花祭り 》

 

 8日は灌仏会(かんぶつえ),仏教の開祖、お釈迦(しゃか)さまの誕生日で、小さな花御堂(はなみどう)(釈迦が誕生したルンビニーの花園を表している)に釈迦像を安置し甘茶をそそぎ参詣をする。これは釈迦が生まれたとき、竜が天から甘い露を潅(そそ)いだ、という説話が元になっている。我が国でも古くから各地の寺院において行なわれ、甘茶を用いるようになったのは江戸時代、「花祭り」と呼ばれるようになったのは明治後期頃から。

お釈迦(しゃか)さまは生まれてすぐに、七歩あるいて右手を天に指し左手を大地に向けて「天上(てんじょう)天下(てんげ)唯我独尊(ゆいがどくそん)」と言った。人間ひとりひとりが宇宙にただ一つしかない命をいただいている尊い存在だという意味です。

 

《 復活祭 Easter 》

 

 イースターともいい、クリスマスとともにキリスト教最大の祝日。キリストが十字架にかけられて死んで、三日目に復活したことを祝って、春分の後の最初の満月直後の日曜日に行なわれる。本来はゲルマン民族の豊穣,繁栄を祈る「春の祭り」であったが、キリストの復活祭が春に行われることからイースターとも呼ばれるようになった。復活祭になると、ヨーロッパでは繁殖力が強いことから豊穣のしるしとされているウサギが、きれいな卵を運んできて庭においてくれるという。そして、復活と多産の象徴である卵に鮮やかな彩色を施したり、卵にちなんだものを贈る。近年では、卵をかたどったチョコレートも用いられている。

 

《 八十八夜 》/5月

 

 二十四節気以外に、季節の変化の目安とする雑節のひとつで、立春から数えて88日目,太陽暦では1,2日ころ、春から夏に移る節目の日、夏への準備をする決まりの日、縁起のいい日とされてきました。八十八夜の別れ霜と呼ばれるようにもう霜の降りる心配がなくなり、安心して農作物を育てられるようになる。この頃になると茶の木に新芽が出揃って緑一面に光が輝く、春の穏やかな陽光の中で育った新芽は柔らかく、渋味が少なくうま味とふくよかな香りが新茶として珍重される。出始めは、新芽を手で摘んだ上質なお茶が手摘み茶とされ、この日にお茶を飲むと長生きするともいわれている。

 

《 端午(たんご)の節供、こどもの日 》

 

 推古天皇(在位592~628年)のころに中国から伝わったもので、端は始めの意味で、端午とは月の始めの午(うま)の日のこと。厄払いとしてしょうぶは魔除け,よもぎは毒消しの作用があることから軒先に菖蒲やよもぎを挿したり、菖蒲湯に入ったりする。のちに男子の節供となったのは、平安の末期,武士階級が興隆しだして、「菖蒲」が「尚武(武道を重んじる)」に通じるとされ、江戸時代には男の子の出世や武運長久を祈って武者人形を飾ったり、鯉のぼり(中国・黄河の急流,竜門を昇った鯉は竜になると言い伝えられ、鯉は立身出世のたとえにされている)を揚げ、柏餅や粽(ちまき)を食べる風習も生まれた。

 

《 母の日 》

 

 1907年(明治40年)に、アメリカのウエストバージニア州のアンナ・ジャーヴィスという女性が、教会の教師をしていたお母さんの命日に白いカーネーションを参加者たちに配ったのが始まり。アンナは、多くの人々がもっと母親を大切にできれば・・と考えて、母親のための祝日をつくる運動を始め、7年後の1914年にアメリカ議会が5月の第2日曜日を母の日と決めた。カーネーションの花(亡き母をしのぶ者は白、現在の母には赤)を胸に飾るようになり、やがてプレゼントとしてカーネーションを贈る風習へとなり、お母さんの愛に感謝のしるしとする。わが国には大正年間に伝わったが、広く知られるのは1937年以後、そして戦後である。

 

《 春紅葉と北海道の5月 》

 

 長い冬を耐えて陽光を待ちわびたように、草花は一気に咲き乱れ若葉が茂る新緑の5月、北海道の山々は紅葉色に色づく。初めての人にとってはなぜ,いまごろと感ずるが、カエデなどの広葉樹の新芽はまだ葉緑素が十分でない為に元来の赤や黄の色素が見えてしまう現象で、「春(はる)紅葉(もみじ)」という。新緑の中に赤や黄色,オレンジ色などに色づいた木々が混じり合い、その風景は繊細で透き通るような美しさがあり、秋の紅葉に引けを取らない。秋は冬に向かい動きのない静かで透き通った美しさ対して、春は強く華やかな若々しい枝や花、葉を次々と繰り出す動きのある紅葉です。関東地方だと3月下旬から観賞できる。

 

《 リラ冷え 》

 

 ヨーロッパ原産のモクセイ科ハシドイ属の落葉樹、フランス語で「リラ」,英名「ライラック」、紫色や白色の花を咲かせ、香りがよいことから香水の原料ともされる。そんなことから、ライラックの咲く街を歩くと、遠くからよい香りがする。北海道では札幌の木に指定されて毎年5月下旬にはライラック祭りが開催されるなじみの深いもの。この季節の北海道は、暖かくなったと思ったら急に冷え込むという気候の変化が見られ、それが「リラ冷え」という言葉になった(本州の花冷えとほぼ同意)。俳人の榛(はん)谷(がい)美枝子が1960年に詠んだ句に使い、渡辺淳一の小説「リラ冷えの街」1971年で一気に広まった。

 

*函館市の英領事リチャード・ユースデンは函館公園開設の   提唱者で、1879(明治12)年の公園完成時に本国から取 り寄せたライラックやセイヨウグルミを植えたのが最初で あると言われている。

 

*それから11年後の1890年に、札幌の北星学園創立者であるサラ・C・スミスが故郷アメリカのエルマイラ(ニューヨーク州)からに持ち帰って校庭に植えて、北海道の冷涼な気候は生育に適していることから庭木や街路樹として広がった。


《 衣替え 》/6月

 

 中国の風習に倣(なら)って平安時代から始った習慣で、季節の移り変わりに伴う気候の変化に応じて衣服を変えること。当時は旧暦の4月1日と10月1日に宮中の行事として始まり、これを更衣(こうい)と呼んだ。明治6年1月1日より新暦(太陽暦)が採用され、6月1日と10月1日に学校や官公庁、銀行など制服を着用する所では、衣替(ころもが)えを行うようになった。着物は、6月から9月までは単衣(ひとえ)(裏地なし)、10月から5月までは袷(あわせ)(裏地付き)を着用するのが決まりとされている。四季の変化がはっきりとしているわが国では、季節の移り変わりを実感させてくれる。衣類だけでなく、カーテンやクッションカバー、ベッドカバーなどを夏用のものに替えることによって、さらに気分もリフレッシュする。

 

《 ジューンブライドJune bride 》

 

 ヨーロッパには6月に結婚した花嫁は幸せになれるという言い伝えがあります。これは、ローマ神話に出てくる結婚と女性の守護神と云われているユノ(神話ヘラ、英語名ジュノーJuno)の月が6月であることによる。この季節のヨーロッパは雨が少なく、晴天が続いて結婚式を挙げるのにピッタリの気候となる。一方、わが国では「梅雨」、雨の季節となる為に6月の結婚式は8月,9月,1月に次いで少ない。せっかくの雨では窓から見える景色がどんより,庭でのデザートビュッフェができない,外でのフラワーシャワーができない,絶好の記念撮影シーンもカットとなってしまう。北海道は梅雨が無く快適、ジューンブライドは北海道で!!

 

《 梅雨 つゆ,ばいう

 

 いわれは、梅の実が熟す頃に降る雨であるという説、湿度が高くカビが生えやすいことから黴(ばい)雨(う)が同じ音の梅雨に転じたという説などがある。春から夏への季節の変わり目に東アジアだけでみられる現象で、北と南の性質の違う気団がぶつかることから大気の状態が不安定になり、梅雨前線が発生し南北にゆっくりと移動をしながら長雨や曇天をもたらす。平均的な各地の梅雨入りと梅雨明けは、那覇市/5月8日~6月23日,福岡市/6月5日~7月18日,大阪市/6月6日~7月19日,東京都/6月8日~7月20日,青森市/6月12日~7月27日。

 

《 父の日 》

 

 6月の第3日曜日、1907年に母の日が始まったが、これに対してアメリカ・ワシントン州のジョン・ブルース・ドット夫人が、母親が早く亡くなり男手ひとつで彼女ら6人の兄弟を育ててくれた父親に感謝する「父の日」の制定を教会へ嘆願したのが始まり。1910年(明治43年)に最初のパーティが開かれ、その後、この行事は各地へ広まり、1916年にはアメリカ全土で行われるようになった。アメリカで正式に祝日・6月の第3日曜日となったのは、1972年のことである。わが国では昭和25年ごろから普及、母の日のカーネーションに対して父の日はバラ。近年プレゼントは多様化してきており、ネクタイやお酒、パジャマなども定番になってきている。

 

《 お中元 》/7月

 

 中国の道教の信仰のひとつで、1月15日の上元,7月15日の中元,12月15日の下元の中で、「中元」・旧暦7月15日は善悪を判別し人間の罪を許す神を祭る贖罪(しょくざい)の日で、火を焚いて神に祈る行事であった。我が国ではこの時期は仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)で、先祖の冥福を祈り供養をしお供えをする習わしがあり、このふたつが結び付いた。そして、お世話になった人に感謝の気持ちや健康を気遣う気持ちなどを品物に託して贈る習慣へと変化し、現在はこの贈答をお中元とよぶようになった。先輩、上司、得意先などへ関東では7月上旬~15日、関西では8月上旬~15日までに贈る。ベスト1はビールで、そうめん,コーヒー,洗剤などが続く。

 

《 七夕(たなばた)

 

 7日は七夕。古代の中国では、ワシ座のアルタイル・牽牛(けんぎゅう)は農作業を、琴座のベガ・織女(おりひめ)は養蚕や裁縫をつかさどることから、豊作を祈願したが、これが後漢(25~220年)の時代にカササギが翼を連ねて天の川に橋をかけ、天帝に許されて年に一度だけ会うことができる日とされた。一方わが国では、お盆の前の厄除けに棚機(たなばた)の行事を行なっており、この2つが一緒になって七夕祭りとなった。江戸時代には手習い伝授の効用もあって、6日の夜に五色の短冊に歌や文字を書いて笹竹に結びつけ祈願するようになった。月遅れの8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行なう地方もある。

 

(注)旧暦の7月7日の夕方のことを七夕(しちせき)という。これを「たなばた」と読むようになったのは、もとは布を織る機(はた)に棚がついていたので棚機(たなばた)と呼んだことからきている。

 

《 土用と丑(うし)の日 》

 

 土用(どよう)は、立春,立夏,立秋,立冬の前の18日間を指し、年に4回あるが、夏の土用が一番生活に根付いた。暑さの盛りで別名,暑中ともいい、この頃に便りをするのが暑中見舞である。土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸時代に平賀源内が夏場にウナギが売れないので何とかしたいと近所のうなぎ屋に相談されて、うなぎ屋の商売繁盛のために書いた宣伝文句「本日土用丑の日」が始まりと言われ繁盛した。これは、酷暑の中で栄養と休養をとって夏を乗り切ろうとする「暑気払い」といえる。うなぎは6~8月に需要が集中し、中国からの輸入と国内でのいずれも養殖物が中心である。関東では蒸し焼きにするので形が崩れにくい背開き、関西では 素早く作業が出来る効率的な腹開きとする。武士社会の伝統で腹開きを嫌うと言われ始めたのは昭和に入ってからである。

 

《 お盆 》/8月

 

 正しくは孟蘭盆(うらぼん),梵語のUllambana(ウランバナ)(さかさつりの苦しみ)からきており、この苦痛を救うために供養を行なうもので、わが国では606年に推古天皇が孟蘭盆会(うらぼんえ)を催したとの記録がある。13日の夕暮れに門口で麻幹(おがら)を焚いて迎え火とし、わが家への仏さまの道案内に仏壇にきゅうりの馬(少しでも早く迎えられるように)やナスの牛(帰りはのんびりと)を供え、盆の間は先祖とともに暮らし、読経(どきょう)をしてもらって仏の冥福を祈る。16日には送り火をして冥土へ送り、供え物は精霊舟(しょうりょうぶね)に乗せて川や海ヘ流す。東京では新暦の7月に、その他の地域では旧暦の8月に行なうところが多い。

 

《 二百十日 》/9月

 

 立春から数えて210日目,太陽暦では9月1日ころと、そのあとの二百二十日は、台風が来襲する厄日とされている。稲の開花期に当たり強風で稲の花が吹き飛ばされると実りが悪くなることから、戒めの言葉でもあった。そのため、伝統芸能として注目されている富山県八尾町の「おわら風の盆」踊りをはじめとして、各地で風鎮(しず)めの祭りが行われて、農業や漁業、生活の安全などを祈った。戦後は、稲作技術の発達(温床育苗による前進化)によって開花期が早くなり、台風との鉢合わせは減っている。また9月1日は、関東大地震(大正十二年)を教訓とする為に定められた防災の日でもある。

 

《 重陽(ちょうよう)の節供 》

 

 中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる九月九日を、重陽,重九(ちょうく)と呼び、菊酒を飲んで邪気を払い長寿を願った。他に奇数が重なるめでたい日として、一月一日の正月,三月三日の桃の節句,五月五日の端午の節句,七月七日の七夕がある。平安時代には宮中の行事となり、菊が盛んに咲く季節であることから菊の節句,収穫祭と合わさって栗の節句とも呼ばれて栗ご飯などで祝った。明治以降、新暦にこよみが移り約一カ月早くなった為に、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことから私たちの日常生活とは縁遠くなってしまった。

 

 

《 神無月(かんなづき) 》/10月

 

 10月の別名で、全国津々浦々の神さまが出雲の大社ヘ集まるこの時期は、各地の氏神さまも留守となり神無月と呼ばれる。反対に出雲地方では神有月(かみありづき)と呼ばれる。

 

《 十五夜 》

 

 旧暦の8月15日、仲秋(ちゅうしゅう)の名月、縁先にすすき,ききょう,はぎなど秋の七草を活け、団子やさつまいも,さといも、くりなどの畑の収穫物を供える。これはすすきを稲穂に見立てて豊作を祈り、大地の恵みに感謝するものである。中国の唐時代に始まってわが国に伝わったのが平安時代、庶民まで広まったのは江戸時代に入ってからである。古くから「芋名月」とも言われるのは、米食が普及する稲作文化以前に、主食として重要な地位を占めていた里いも(子芋が多いことから子孫繁栄や豊穣を願った)を満月に供えたもので、ダンゴも里いもを形どったものといわれる。

 

《 体育の日 》

 

 1964年(昭和39年)東京オリンピックの開会式のあった10月10日を記念して1966年から国民の祝日としたが、2000年からは「ハッピーマンデー制度」の施行により第2月曜日となっている。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」ことを趣旨としている。10月10日になったのは日本の観測史上いちばん晴れる確立が高かったから、そして体育の日にもっともよく行われているのが「運動会」で文明開化の時に西洋から持ち込まれ、明治7年海軍兵学寮で最初に行われた。団体訓練をする場として利用されたが開催が重なるにしたがって、盛大で楽しい地域全体のお祭りとなっていった。

 

《 雪虫 》

 

 北国・北海道に冬の訪れを告げる風物詩で、10~20日ごろに粉雪のように乱舞する光景は幻想的である。これはアブラムシの仲間,トドノネオオワタムシ(体長約4mm)で、体内から分泌した白ロウ質が白い背中を作っている。春にヤチダモで育った幼虫は、夏の初めにトドマツの木に引越しして、トドマツの根っこで樹液を吸って育つ。雪の便りが聞こえる頃にヤチダモの木に産卵のため群舞する。湿地帯を好むヤチダモの減少で、近年は雪虫も減っている。

 *ヤチダモは硬い木で、家具や野球のバット材として知られ、北海道の湿地や沢沿いなどの森林によく見られる。


 

《 ハロウィンHallo ween

 

 キリストの「万聖節」(諸聖人の祝日・11月1日)の前夜祭All hallow even(10月31日)、これがつまってハロウィンとなった。もともとは欧州文明の基層を成す古代ケルト人の冬を迎える火祭りの日で、死者の霊が戻ってくると信じられ、それを祭るとともに魔除けと一年の収穫に感謝を捧(ささ)げたもの。アイルランドではカブをくりぬいていたが、アメリカでは身近な南瓜をくりぬいてランタンを作り、窓辺やテラス,玄関などに置く。子供達は魔女や妖精,黒猫の仮装をして「Trick or treat 何かちょうだい、でないといたずらするよ」と家々をお菓子をもらいながら歩く。休日ではないが、クリスマスに次ぐ大きなイベントである。

 

《 文化の日 》/11月

 

 3日は文化の日。1852年のこの日に明治天皇が誕生したことから、昭和2年に明治(めいじ)節(せつ)という国民の祝日となった。昭和21年に日本国憲法が交付され、23年に明治節が廃止、文化の日が生まれた。戦争放棄,主権在民を宣言した新憲法を記念する祝日である。自由と平和を愛し文化を発展させようとするもので、各地で文化祭や芸術祭が催される。第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。5月3日の憲法記念日は交付から半年後に施行された日である。

 

《 新暦と六曜

 

 9日は太陽暦の採用記念日。604年から採用された中国渡来の大陰太陽暦から、明治維新後、世界との交流によって太陽暦の必要が生じ、明治5年12月3日を明治6年1月1日とする旨を明治政府が布告をした日である。

 

 六曜とは先勝(せんしょう),友引(ともびき),先負(せんぶ),仏滅(ぶつめつ),大安(たいあん),赤口(しゃっく)の六つをいい、中国で602~670年に作られた暦に吉凶を書いたものだが、その中国では迷信にすぎないということですぐにすたれてしまった。わが国には室町時代に伝わったといわれるが、広まったのは江戸末期から明治にかけて手軽な吉凶見として、また、カレンダーの大量印刷ができるようになってからである。今では結婚には大安の日が選ばれ、仏滅の宴会場は閑散として、友引の日には葬式がない、とはいってもせいぜい百数十年のことである。

 

《 七五三 》

 

 昔は乳児死亡率が高く「七才までは神のうち」といわれ、成長の節目節目にお祝いをした。髪が生え揃って結えるようになる三才の女児は,「髪置(かみお)きの祝い」、小さいながらも一人前に袴をつけて身づくろいのできるようになる五才の男児は,「袴着(はかまぎ)の祝い」、本式に帯をしめられるようになる七才の女児は,「紐直(ひもなお)しの祝い」を、古くは個々の誕生日に祝ったのが、のちに11月の吉日に、さらに江戸時代五代将軍綱吉の時代から15日に行なうようになった。無事にここまで大きくなったことヘの感謝と、未来ヘの福寿を祈り、内々で祝うもの。「七五三」と称するようになったのは、明治以降のこと。

 

《 新嘗祭(にいなめさい)

 

 新嘗(にいなめ)とはその年に収穫された新しい穀物のことをいい、今年取れた米を神々に供えて、収穫を感謝し新しい年の豊穣を祈る行事、農業国家である日本は、古くから五穀(米,麦,豆,あわ,きび)の収穫を祝う風習があり神話にはアマテラスオオカミやアメワカヒコがまつりを行なったとある。宮中では旧暦11月第2の卯(う)の日に天皇みずからが行なったが、太陽暦を採用した1873年(明治6年)以後は11月23日と定められた。戦後、国民の祝日の選定の際に宗教的色彩の濃いものが排除され、昭和23年から「勤労をたつとび,生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」・勤労感謝の日として祝日となった。

 

《 冬至(とうじ) 》/12月

 

 北半球では一年中でいちばん昼が短く夜が長く、次の日からまた昼が長くなっていくことから、中国の太陰暦で冬至は暦の起点とされた。人々は生命の源である太陽の恵みを享受することが出来にくく、冬至に対する不安は大きかった。そこで神へ供物を捧げて、無病息災を祈り不安を取り除き、そのお下がりを神とともに食べると言った風習が、中世(鎌倉幕府の成立・1192年から織田信長の上洛・1568年まで)になってわが国へも伝わった。このときに保存の利く野菜が選ばれたもの。昔から、この日に柚子(ゆず)湯に入ると無病息災、かぼちゃを食べると中風(ちゅうぶう)にならない、風邪をひかないといわれている。かぼちゃには、ビタミンAの母体となるカロテンがたっぷり含まれており、健康野菜としてもっと利用したいものである。

 

《 クリスマス,Christmas,降誕祭

 

 英語でキリストのミサChrists massの意,フランス語のノエルNoelは誕生日,ゴール語では新しい太陽を指す。古代ローマでは、太陽は人間の生命を守ると信じられ、冬至がすぎて太陽が日増しに強くなってくる12月25日を、「不滅の太陽の誕生日」としてお祝いをした。その後にキリスト教が広まるにつれ、この日をキリストの誕生日を祝うにふさわしい日だとし、西暦354年に当時の教皇リベウスが降誕祭に決めた。クリスマスツリーにモミの木を使うようになったのは、ヨーロッパの厳しい冬の中でも変わらず緑を残しているモミの木を、不滅の木・生命の象徴としてあがめ、またそれは、人々に大きな勇気を与えたからであろう。

 

《 サンタクロース

 

サンタクロースは新大陸のアメリカで、ヨーロッパ移民が一同に会したときにさまざまな祖国の習慣がひとつに融合して生まれたもの。すなわちサンタクロースの名前はキリスト教の子供の守護聖人である聖ニコラスのオランダ語の呼び名、シント・クラウスから、クリスマスには精霊がイヴの晩に訪れて、よい子の枕もとの木靴の中に硬貨を入れてゆくという習慣はフランスから、また八頭のトナカイにひかせたそりでやってくるというのは北欧の神話から、そして大きなフードつきのコートを着て袋をかついだ白ヒゲの地の精(グノーム)という服装はゲルマン神話から、という具合にそれぞれ都合のよい部分がひとつになったもの。今のような服装になったのは、1931~64年にコカ・コーラ社が画家のH・ブロムに描かせたコカ・コーラを連想させる赤と白のスーツが起源となっている。

 

《 正月飾りと鏡餅

 

 九(苦)をつく…と嫌って28日に餅をついたことにならって、28日には鏡餅などを買い、29日には門松やしめ縄,鏡餅などを飾り終えるようにする。昔から、30日に飾るのは一夜飾りといって嫌う。この鏡餅は古くから神聖視されていた鏡に似ていることから名付けられ、太陽と月になぞらえた大小の餅を神々に供えるもの。うえには橙(だいだい)を乗せるが、これはこの果実が成熟しても落下せず、これを代々繰り返して大きくなることから「相変わらず」として、縁起をかついでのこと。

 

《 注連縄(しめなわ)

 

 占有、立入禁止を示すときに張り巡らせる縄で境界を表す。天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)が天(あま)の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにしたのが始まりという。また、清浄・神聖な場所を区画する意味もある。従って神社のみならず、巨大な岩や樹木、清浄な井戸,瀧,寺院にも掲げられる。正月、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、家の中に悪霊を入れず、穢(けが)れをさり無病息災・家内安全を願ってのことである。普通、藁(わら)を左撚(よ)りにして、その間に紙の四手(しで)を挟んで下げる。飾る日はクリスマス後から28日までが一般的、29日は「苦」に通じる、31日は一夜飾りといい、迎え入れる神様に失礼であるとされる。

 

《 門松 》

 

 いつもは山にいる歳神(としがみ)様(穀物の精霊,稲の魂)を迎えるために、迷わない道しるべとして立てられる。竹を斜めに切ったものを3本組み合わせて、まわりを松で囲むか、もっと簡単に松の小枝だけを立て輪飾りをつける。松竹梅を使うようになったのは鎌倉時代以降で、厳寒にも緑を失わない松,しなやかに伸びる竹,そして百家にさきがけて花咲き薫る梅は「歳寒(さいかん)の三友(さんゆう)」と呼ばれ、めでたいもののしるしとされてきた。28日までに飾り、歳神(としがみ)様を迎えて正月六日(あるいは七日)に外すことから、この日までを松の内という。地方によっては15日までと様々である。戦後、山林管理と生活改善運動の面から姿を消しつつある。

 

《 年越しそば

 

 大晦日(おおみそか)(31日の夕食、もしくは年越しの頃に食べる)に縁起をかついで食べる蕎麦(そば)で、残すと翌年金運に恵まれないという。別名みそかそば,つもごりそば,大年そば。その由来はいろいろで、①細く長くということから「健康長寿」,「家運長命」などの縁起をかついで食べるようになった。②金箔師が仕事場に散った金粉や銀粉を拾い集めるのに、そばの団子を使ったことから「金銀をかき集める」。③切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」。この風習は江戸中期から定着したとされ、家族全員で食卓を囲み、健康で元気に新しい年を迎えられることに感謝しいつまでも幸せにと願うものです。

 

《 大晦日(おおみそか)と新年 》

 

 古くはお正月とお盆には、祖先の霊を迎えてともに祝いその年が恵みの多い年であるようにと祈り、またあの世に送りだす「祖霊まつり」の行事であった。のちに祖霊まつりはお盆の行事となり、お正月は五穀の神,農業の神など「歳神(としがみ)」を中心に祭るようになった。12月末日を大晦日というが、かつては1日の区切りが夕(日没以降)で、新年は大晦日の夕方から始まりお迎えした歳神様とともにみんなでお節料理をいただく。これを「年越し」といい、年越しの夜は除夜である。

 

《除夜の鐘 》

 

 除夜(じょや)の鐘とは、大晦日(12月31日)の深夜0時をはさんでつく鐘のことで、日付けが変わり新しい年になる時を鐘をつきながら迎えます。人には煩悩(ぼんのう)(人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心のはたらきのこと)があると言われ、その煩悩を祓(はら)うために除夜の鐘をつくとされています。中国から宋代に渡来した習慣とも言われ、仏教では、お正月とお盆の年に二回先祖を祀(まつ)る儀式があった。これが時代を経るとともに「お正月は年神様(豊穣・豊作の神様)にその年の豊作を祈る」という神道の信仰へと移っていったようです。なお、除夜とは、除日(じょじつ)の夜=一年のいちばん最後の日という意味を表し、大晦日のことをさします。この百八つとは、 眼・耳・鼻・舌・身・意×好・悪・平(どうでもよい)=18、×浄・染(きたない)=36、×前世・今世・来世=108となり、人間の煩悩の数(いわゆる沢山)を表す。